DigItal-AnaLog(ue) ——言葉にとって美とは何か

白石火乃絵

水無月廿九日


パソコンとの関係について


 どうやら、いまの時代、なにであれ書く仕事をするものは、この機械と関係しないわけにはゆかぬのらしい。そのような強要にたいして、幼少じだいから母親とのやりとりをとおして拒絶をとおすということに慣れてしまっているから、なにも従おうというわけではない。ただ、ここにきて或る新鮮さのようなものを感じはじめているというのも事実だ。妹からのおさがりでもらったMacBook Air (六年前くらいのモデル)にたいして愛着が生まれてきている——少しまえに、詩人の山下洪文氏とお話したとき、仕事をするにはWindowsでなければならないということをいわれ、わたしも長らくそのOSをつかってきたのだが、だとしても不便はいいものである。ちなみにこのパソコンは、無線がこわれていて、有線でしか通信ができない。まことに愛らしいではないか。このときの会話で、わたしは山下氏に、著作はワードで書くのかときいた。ソフトウェアについて質問したつもりが、わたしのひととなりから、書く手段についてときこえたらしく、「ワードで書くよ。昔は、手書きじゃなきゃダメだと思ってたけど、やっぱり幻想だな、と思って。」

「そうでしょう、技術ですからね。感覚を、キーボードに移せばいいんですよ。」

 ほんというと、わたしはこのあとに、〝アナログはデジタルを貫通する〟ということをいおうとおもい、いわずにしまった。

 とはいっても、やはり違いのないはずがない。紙にペンで書くのと、パソコンの画面に打ち込むのとではまるで感覚がちがう。なにより、いきなり活字になるというところが。ワープロだとすぐに書き直しがきくが、痕跡はのこらない。書けない漢字を変換予測から択ぶことができるが、当て字のようなものは出てこない。それよりも、左右の手をほとんど平等に使うということがアタマの働き方にもたらす影響は大きいだろう。わたしはほんらいペンは左でつかったのだが、腱鞘炎になったのを機に右で書くようになった。すると筆跡もそうだが、まるで文体というものが変わったようである。右になってからのほうがしっくり来ている(文字は右で書くように発明されているから当然ではあるが)。タイピングの場合はどうか。

 アルファベットをつかう国では、PCよりはやくタイプライターが普及していた。わたしの好きなサリンジャーやケルアックの文章も、このオールド・タイプの機器なしにはかんがえられぬもののように思われる。これは打楽器に似ている。彫刻家のロダンは、趣味が藝術家の宇宙羅針盤だといっているが、文筆家にとっては、〈ペン〉がそれにあたるだろう。「私の友だちの造船家が私に話したには、大甲鉄艦を建造するには、ただそのあらゆる部分を数学的に構造し組合わせるだけではだめで、正しい度合いにおいて数字を乱し得る趣味の人によって加減されなければ、船がそれ程よく走らず、器械がうまくゆかないということです。」(『ロダンの言葉抄』高村光太郎訳)これは、とくにワープロで文字を書くようになったわたしたちが、耳をかさねばならぬ匠の証言であろう。

 これは大切な問題だ。これにかかわるのを幻想とわりきってしまうのは、それこそうつつを抜かすことになりはしまいか。わたしは危惧している。

「自分の良心と妥協してはいけません。何でもないというほどの事でもです、後にはこの何でもない事が全体になって来ます。……芸術はのろさを要求する。人々の、殊に青年の頃には思いを及ばないほどの辛抱を要求します、会得する事もむずかしいしまた作る事もむずかしい。」(同前。)


文月五日


しんてきせかいノじょじゅつ


 正午すぎ、夢日記を書き上げ、リルケの『マルテの手記』の冒頭を読み上げる、録音中に眠ってしまう。少しして目覚め、こんどは吉本さんの『心的現象論』Ⅰを読み上げる。大井町のさんまるく・かふぇに来て、林芙美子の「ボルネオ ダイヤ」を書き写す。

 それからだ、さっき買った書簡箋にわたしは以前の試みを再開していた。——


 Ⅰ しんてきせかいノじょじゅつ


   1 しんてきげんしょうハじたいトシテアツカヒウルカ


 マヅナニヨリモ、コノとヒカケカラハジメルコトニスル。コノとヒカケニハ、イクブンカげんざいノあシキゆいぶつろんノすいじゅんニタイスルこうげきトぼうえいノいみアヒガフクマレテヰル。カレラニヨレバ〈しんてきげんしょう〉トカクコトじたいガスデニいつだつナノデアル。ソシテツギニしんてきげんしょうヲないてきナこうぞうニオイテもんだいトスルコトハ、スデニあシキかんねんろんノふミハヅシデアルトサレル。シカシ、カウイッタひなんハホンタウハタイシタもんだいデハナイ。ワタシタチガナニモノカトシテふるまオウトスルトキ、スデニじょうしきカラノふミハヅシヲいみシテヲリ、げんざいすたぁりんてきゆいぶつろんハ、ヒトニヨッテハ〈まるくすしゅぎ〉トよンダリシテヰルガ、せつわニナッタじょうしきいがいノいみヲ、ドンナりょういきデモモッテハヰナイノデアル。ワタシタチノカンガヘデハまるくすノちけんノウチモットモスグレテヲリ、モットモきちょうナノハカレガソノたいけいノウチニかんねんノうんどうニツイテノべんしょうヲほぞんシテヰルコトニアル。ソレナクシテハカレノたいけいハしぜんかがく、ちゅうしょうろんりがくノはってんニヨッテトウニふるビテシマッテヰタデアラウ。ゲンニソレハあシキゆいぶつろんノげんざいニオケルめいうんニヨッテけんしょうサレル。


 吉増剛造さんの「根源( 亡露ボーロ)手、……」などに同じような試みがある。わたしはおそらく、これを真に受けている少数の読者であろう。

 やっていることをかんたんにまとめると、

一、漢字は現代仮名遣いでひらがなに開く。

二、ひらがなは歴史的かなづかいでカタカナに、

三、カタカナはそのままひらがなに換える。

 じつは、このやり方におちつくまでに、半年ほどまえから幾たびか試行をくりかえしている。吉増さんは、三、以外をすべてカタカナで筆写していた。わたしは、筆写からはじめたが、それをワープロに打ち込むという二重の作業をしている。『DigItal-AnaLog(ue)』は実践の書である、この試行はたいせつな作業のひとつだ。なにをがしたいというのか?

 うなぎのつかみどりをさせてもらえば、声コトバにとって、文字・文がどういうふうに感受されているか、意識と無意識の境くらいにあるスクリーンにうつる言葉を紙に写してみるということである。いわば、文字を習い始めたくらいの自分の言語感覚に近づこうとする試みだ。

 大胆な読みでは、吉本さんの著作のうち最も奇妙な書物である『心的現象論序説』はちょくせつに、ここを取り扱っているものと感じている。であるから、この 素読 ( ﹅﹅ ) において、この書はうってつけで、ほかにはちと考えようがない。説明がきらいだから、これくらいでゆるしてほしい。右の試行を、ゆっくりと読んでもらえれば自ずと感受されるであろう。

 と、写しているうちに、もうひとつ、これ以上にうってつけの本に気づいてしまった、


 第一章 つばきノうみ

 

つなガヌおきノすておぶね  

しょうじノくがいはてモナシ 


    やまなかきゅうへいしょうねん


 ねんニいちどカにど、たいふうデモヤッテコヌカギリ、あわたツコトモナイちいサナいりえヲかこンデ、ゆどうぶらくガアル。

 ゆどうわんハ、コソバユイマブタノヤウナサザなみノうえニ、ちいサナふねヤいわしかごナドヲうカベテヰタ。こドモタチハまッぱだかデ、ふねカラふねヘとビうつッタリ、うみノなかニドボントおチこンデミタリシテ、あそブノダッタ。

 なつハ、ソンナこドモタチノアゲルこえガ、みかんばたけヤ、きょうちくとうヤ、グルグルノこぶヲモッタおおキナはぜノきヤ、いしがきノあいだヲノボッテ、いえいえニキコエテクルノデアル。

 むらノイチバンひくイトコロ、ふねカラアガレバトッツキノだんきゅうノねニ、ふるイ、おおキナきょうどういど——せんじょうガアル。しかくイひろびろトシタいどノ、いしノへきめんニハこけノかげニちいサナぞなめヤ、あかクかれんナかにガあそンデヰタ。コノヤウナかにノすムいどハ、ヤハラカナあじノいわしみずガわクニチガヒナカッタ。

 ココラアタリハ、うみノそこニモ、いずみガわクノデアル。

 いまハつかハナイみずノそこニ、いどノ ごり ( ﹅﹅ ) ガ、つばきノはなヤ、ふなくぎノかたちヲシテるいるいトしずンデヰタ。

 いどノうえノがけカラ、じゅれいモさだカナラヌつばきノこじゅガ、ウチかさナリナガラ、せんじょうヤ、ソノまえノひろばヲオホッテヰタ。くろぐろトシタはヤ、マガリクネッテノビテヰルえだハ、ソノねニわレタいわヲだキ、としおイタせいヲハナッテヰテ、ソノしたかげハイツモすずシク、ヒッソリトシテヰタ。いどモつばきモ、オノレノさいげつノミナラズ、コノむらノヨハヒヲかたッテヰタ。


 石牟礼道子『苦海浄土 わが水俣病』である。副題はきわめて詩的なおもみをふくんでいる。もし、わたしが「わが水俣病」を語るとすれば、それは文字ということになる。そのとき椿の海は、わたしの声コトバにあたっている。

 不知火海に、毒が闖入したとき、水俣のヒトびとの意識はこのようになっていたはずだ——


ヨネモリ例ノノウショケンハヨクコレデセイメイガタモテルトオモワレルホド荒廃 シテイテ、ダイノウハンキュウハ——大脳半球ハアタカモハチノス状ナイシ網状ヲテイシ、ジッシツハ——実質ハホトンド吸収サレテイタ。小脳ハチョメイニ萎縮シ灰質ガキワメテ菲薄ニナッテイタ。シカシ脳幹、セキズイハヒカクテキヨクタモタレテイタ。

タダレイガイテキニ亜急性例経過ノヤマシタ例デミギガワレンズ核ガホトンド消失シ テイタ。コノヨウニ本症ノケンキュウトトリ組ンダ初期ノボウケンレイ——部検例デレンズ核ノショウガイガツヨイ例ヲミタノデハジメマンガン中毒ヲユウリョスベキデアルトカンガエタガ、ソノゴノ部検例デハカヨウナ症状ハ一例モナク、ゲンザイデハマンガン中毒ヲヒテイシテイル。


ビョウリガクタケウチキョウジュノコトバ

「ビョウリガクハ死カラシュッパツスルノデスヨ」   【『苦海浄土』原文ママ】


 いわばこれは大人の傷つきかたなので、子供が大人たちのせかいの話をきいているときには、水俣病はこのように受け取られていたはずだ——


 げんびょうれき・31ねん7がつ13にち、りょうがわノだいに、さん、ししニシビレかんヲじかくシ、15にちニハこうしんガシビレみみガとおクナッタ。18にちニハぞうりガウマクハケズほこうガしっちょうせいトナッタ。マタソノころカラげんごしょうがいガあらハレ、てゆびしんせんヲみ、ときにこれあ(ぶとうびょう)ようノふずいいうんどうガみとメラレタ。8がつニはいルトほこうこんなんガおこリ、7にちみなまたししらはまびょういん(でんせんびょういん)ニにゅういんシタガ、にゅういんよくじつヨリこれあよううんどうガはげシクさらニばりすむすよううんどうガくわワリときニいぬぼえようノきょうせいヲはっシテまったクノきょうそうじょうたいトナッタ。すいみんやくヲとうよスルトしゅうみんスルようデアルガ、ししノふずいいうんどうハていしシナイ。じょうきノしょうじょうガ26にちごろマデつづイタガしょくもつヲせっしゅシナイタメニぜんしんノすいじゃくガちょめいトナリ、ふずいいうんどうハカヘッテいくぶんかんじょトナッテどうづき30にちとうかニにゅういんシタ。ナホはつびょういらいはつねつハみラレナカッタガ、26にちヨリ38どだいノねつガつづイテヰル。


 まだ穏健な部分であるが、なにも医療カルテをあげつらって、意識の傷どうこういいたいわけでもない。森鷗外でも、軍医としてこのような文章は書いている(というより、その工夫のれきしに貢献している)。しかし、『苦海浄土』において、この手の文章が導入されるということは、作者の意図にほかならず、読者はもちろん医者という職業人のイシキでこれを読むのではない。直前には、九平少年の母親のやや長い方言せりふののち、


 少年はうしろむきのまま、いつまでもガクッ、ガクッと体を傾けダイヤルをまわす。そうやって少年は「からいも」の値段について、去年、おととしの売り値について、母親がことしつくって、出す「からいも」の値段の予想などについて、考えめぐらしているのにちがいなかった。                   【原文ママ】


「からいも」は少年にとって、ひらがなとおなじ心と物のきょりにある。母がことしつくった「からいも」は、いわばアナログの情緒がそのおもみと手触りとにふくまれている。慣れ親しんだ畑の土のにおいと湿り気もしよう。そして、少年は。いわばデジタルの市場価値に〝考えをめぐらしている〟。その先には、「手指震顫」の痛みの洪水がある、というように作者は文章を運んでいる。読者は「からいも」の世界を半分ひきずった意識で、このカルテを読まされる。それを極端に視覚化すれば、わたしの素読行のようになる。

 ひらがなを導入すると、子供が、自らの死病や周りの精神疾患などを受け容れるように、やさしくみえる。わたしなど、幼少からことばに異和というかたちの敏感をもっていたから、大人たちの専門用語のようなものの音をかようにききとって、ゆっくり口中で、てゆびしんせん、てゆびしんせん、のごとく繰り返したりしていた。

 それにしても、作者は、ほとんど幼児のせかい、少年のせかい、患者のせかい、医者のせかい、組合のせかい、の言語を縦横に作品に取り込んでいる。あたかもそのすべての話者の意識せかいに這入れるとでもいうように。読者は、幼児言語に引き戻され、ようやく馴染んだとおもったら、医療カルテのせかいに跳ばされる、この異和は、ほかの小説とよばれる作品であまりお目にかかれるものではない。わたしたちは、半分水俣のひとびとの意識で、半分は新聞の経済欄の文章をよむ都会人のイシキでこれらを読まされる。この言語体験は、この作品に固有のものだ。ただ、水俣のひとびとの被害者の立場で読まされるのではなく、現代のはやくおそく別の速度で流れているあらゆる時間のるつぼに、いやおうなくひきずりこまれる。そして、その流底で一貫している作者の意識に出会う。母親の方言せりふ直前の地の文、


 磯の匂いや草の匂いのする娘たちにむかえられて、ここらあたりの兵隊帰りたちは、徐々に百姓にたちかえり、 会社ゆき ( ﹅﹅﹅﹅ ) にたちかえり、漁師に、つまり本来の若者にたちかえっていったにちがいない。                   【同前。】


 石牟礼さんの資質をひとことでいえば、他者の考えていることが声のように聞こえてしまう、という ( ) ( げき ) せいだろう。そして、ほとんど同時といっていい速さで、あの人の心、この人の心と憑依をくりかえす。彼女にはわたしたち都会人のプライベートなどというみみっちい観念はおよそ通じない、うわさ好きの田舎のひとびとにとっても、平常ありがたいものではないだろう。他者というのはもちろん草や花や魚や虫でもよい。というより、それは水俣病そのものでもいいのだ。現代の愛なき医者の眼には、統合失調症の中期症状のようなものとうつるであろう。しかし、彼女の言語能力は健康すぎるほどである。なにが、『苦海浄土』を可能としているか。それはあらゆる他者を包み込む、不知火海 ( しらぬいかい ) をうちにもっている、というほかない。 かれ ( ﹅﹅ ) ならばこういうことができる、「わが水俣病」と。